「当然」と思ってしまう心

これは、帰省先から帰り思ったこと。


実家に帰る前、俺は家にお土産を買って帰るかどうかで悩んでいた。買って帰ったら親が喜ぶだろうな〜、とか考えつつ、家から水戸駅まで結構長い距離を歩くので、荷物が多くなるから却下した。あんまり歩かずにすむ東京駅で買っていきゃ間に合うだろうと思っていた。だが、いざ、東京駅につくと買う気が全くなくなってしまったのである。なんというか、めんどくさくなって、別にいいや、と思ってしまった。


だが、不思議である。会社の人たちには福井でお土産を買ってあげようと固く思っていた。なんというかみんな出張先で色々買ってきてくれるので、俺も絶対買わなきゃなと思ったのである。俺は22年間ずっと俺に投資をしてくれた親より、たまにお土産をくれる会社の人たちに恩を感じたのである。そう思った瞬間、かなり悲しくなってしまった。


自分は、別に人に与えることを嫌がっている人間ではないと思う。アメリカの友達には別れ際に7時間かけて折ったドラゴンを渡したし、今も今月帰るフランス人のインターン生のために7時間ドラゴンを折っている。そのために、2万円でペーパーカッターなどの工具もそろえた。アメリカではみんなに餃子作ったりしたし、日本でも同期にたまに料理振舞ったりもしている。まぁ、それは自分の折り紙や料理が認められるという自己満足があるからできることでもあるのだろうけど、与える気になれば手間はあまり惜しまない人間ではあると思う。

ただし、肝心の家族に何かを与えようと思う段階になって、俺はものすごく小さな手間を惜しんだ。晩飯を買いに行った東京駅のコンビニにはひよこや東京バナナがあった。しかもたったの千円である。でも、俺はそれをとらずにお茶とおにぎりだけをとってレジに向かった。なんで自分は、本来一番恩を感じるはずの親に小さな手間をかけることを惜しむのだろうか…と帰りの電車の中で会社の人たちへのお土産を運びながら考えたのである。


今まで育ててきた親への恩、どこかで俺はそれを感じてないんじゃないかと考えた。そう考えた瞬間に、一番納得の出る答えが出てきた。そう、俺はどこかで、親が子供を育てるのは当然のことであり、感謝することではないと思っていたんだと。んで、俺がそう考えるようになってしまったのはなぜか?と考えると、ここでまた親父の教育の登場である。


俺は反抗期を逃した。つい最近、反抗期になったなんて書いたが、まぁ、正直あれぐらい可愛いもんだと思う。だが、別に「なぜ自分は親の言うことを聞かなければならないのか?」という疑問を小さいころに持たなかったわけじゃない。その疑問を親父に対し口にしたのは怒られたからなのか、ふと疑問に思ったからなのかは忘れた。ただ、答えは覚えている。「親が育ててあげているんだから親の言うことを聞いて当たり前のこと」だと。その時俺は、自分は親父の言うことを聞くという対価を払うことによって、育ててもらっているのだと解釈したんだと思う。今まで俺が親にしてもらったことは、俺が対価を払ったから当然もらえるものであり、恩を感じるものではないと。だから、頭の中にUGAの学費が思い浮かんでも、俺の手は1000円の東京バナナを手にしなかった。


この答えに辿りついた時、とても悲しくなってしまった。何が悲しかったって、あんな答えを言った当時の親父が哀れで仕方がなかったのである。だって、親父の答えによると親父は俺を育てたいから育てているのではなく、俺が言うことを聞くから育てていたということになる。自分の子供が自分の子供であるがために育てるんじゃなく、自分の言うことを聞くから育てている。そこにだ、小さいころの俺を育てているときの親父の余裕のなさみたいなものが見えてしまった。


ごめん、疲れた、続きはまた今度。