音楽と音楽家

クラシックなんて全然聴かないのだが、音楽を批評するときにどういう基準があるのかなというのが気になったので買った本。で、この本をよく理解しようとするために実家にあったクラシックのCDは全てパソコンに持って帰ったのである。


当初の予定としてはまずクラシックのCD全部聴いてみてその後で本読もうと思っていたのだが、いかんせんクラシックは聞く気が起きない。結局本を先にとって読み始めてしまった。しかし、考えても見れば批評って普通聴く前に聴くかどうかを決めるために読むものであって聴いたあとに読むものじゃありませんよね。この本でいかに○○がすばらしい〜とかって書いてあったのを読んでクラシックをちょっと聴く気になって気づきましたよ。でも残念ながらこの本に載っている楽曲は俺は一つも持ってないんで、この本を読んでこの曲のよさが分かったとかはありません。正直クラシックにちょっと興味がわいた程度です。


しかし、この本はクラシックも何も知らなくても読み物として楽しめました。曲の分析うんぬんより音楽家の思想みたいなのがたくさん書かれていて面白かったです。曲の分析もどちらかというと抽象的なものが多くてそんなにむずかしくなくすんなり読めました。一つ、ベリオールズの交響曲というのをこの部分は何長調とか何短調とかという風に解剖して解説した部分があって、そこはあまりに分からないしつまらないんで流し読みしました。しかし、一通り分析が終わった後に筆者はこう書いた。

美しい殺人者の頭を解剖するベリオールズさえ、僕がこの第一楽章を解剖したときほどの嫌厭を感じなかっただろう。いやなばかりか、この解剖が何か読者のためになったろうか。しかし僕としては狙いが三つあった。第一、この交響曲を全然知らない人たちに、音楽ではこうして分析して批評したところで、ほとんど何一つはっきりしてこないことを示し、次に、通り一遍にしか知らないくせに、勝手が分からないため放り捨ててしまった人たちに、若干の重点を暗示し、最後に知ってはいるが、この曲の真価を認めたがらない人たちに、この曲はみたところ形式がないようにみえるけれども、さらに大きな標準ではかってみると、敢えて内面的な繋がりにまでは触れなくても、立派に均整の取れた秩序の内在していることを教えたいと思ったのである。

つまり、この人はクラシックを全く知らない人が読んでもつまらないと感じると分かっててあえて細かく分析することによって、全く知らない人たちには音楽とは細かく分析するだけでは見えてくるものは少ないことを示して、少し分かってても構成がいまいち分からない人たちが読んだらこの楽曲の重点が分かるようにして、この曲を認めない人には反論しているわけであった。だから、何って感じだけど、一つの文章でも違う人に読ませることによっていろんなメッセージを伝えられるんだなとちょっと感心しただけです。